「子ども」という詩で、評論社から出版されている「あなた自身の社会」(←評論社サイト)という本(川上邦夫訳)に収録されている。
この詩の出典はアメリカの教育学者ドロシー・ロー・ノルトで、PHP文庫から「子どもが育つ魔法の言葉」(石井千春・武者小路実明 訳)という本が出ている。
新聞にも掲載された川上邦夫訳はズキンと胸が痛くなる。
批判ばかりされた子どもは〜、殴られて大きくなった子どもは〜、笑いものにされて育った子どもは〜、皮肉にさらされた子どもは〜…ここまでの文章に一言「そしてACとして苦しむ」をつけ加えたら完璧に私たち(AC)のことを読んだ詩になる。
しかし、今日入手した「子どもが育つ魔法の言葉for the Heart」は前述の「子どもが育つ魔法の言葉」をまとめて読みやすくしたもののようだ。当たりのやわらかい文章なので、今まさに心が疲れ切っている人でも読めると思う。
同じようなタイトルで「for the Family」や「for the Mother and Father」「10代の子どもが育つ〜」など出版されているのでどれか読んでみるのもおすすめ。
昨日、お昼を食べるのにファミレスへ入った。
私の席の前には離乳食を食べる幼児を連れた、私と同年代とおぼしきカップルがいた。
食事中、子どもが時々大きな声を出すのが気になったがそれはガマンの範囲。
それよりもこのカップルの雰囲気のほうがもっと気になった。
暗い。
かといって喧嘩をしている様子ではない。
2人とも子どもに対しての声掛けが少ないのだ。
子どもの母親がトイレに立ったのだが、子どもが母親を探して店内をキョロキョロ見回しているのに連れの男性はボーっとあらぬ方向を向いている。子どもが声を上げても無視。子どもは明らかにこの男性を呼んでいるのに無視し続けた。
パッと見は親子のような3人だが、この男性は父親ではないようだ。
この光景に私は気持ち悪くなってしまった。
先日、テレビで「自分は子どもを虐待しているかもしれない」と言っていた若い母親を定点カメラで撮った番組があったが、それを見たときのような(この母親は1日中子どもを放っておいてさらに「うるさいんだよ」と怒鳴っていた)、吐きたいのか泣きたいのかわからない気持ちになってしまった。
「子どもが育つ魔法の言葉」を買ってきたのに気づいた父が、私に
「お前、子ども育てるのか?」
と冗談で聞いた。私は
「かわいそうだった子どもの頃の私を育て直すの」
と皮肉で言ったがもちろん通じない。皮肉だということはわかったようだが、本当の意味などわかるはずもない。
母はこの本をパラパラと見て
「何歳ぐらいまでこう言って育てたらいいんだろうね」
と言った。
呆れた。
何歳ってことないでしょう。子どもを育てる言葉は、イコール、人との関わり方を示した言葉。
相手が自分の子どもであれ、赤の他人であれ、同じスタンスでいることが自分が自分であることの証じゃないの?
逆に、同じスタンスでいられることがオトナだってことじゃないの?
そう思い、本当に私は親を乗り越えられたんだなぁと実感。
もう親の無遠慮で無神経な言葉に傷ついたりはしない。
私に人間の子どもを育てる機会があるかどうかはわからないが、自分が親になっても大丈夫だとも思った。
それにしても、「〜そしてACとして苦しむ」まさに的をえた表現です!
先日「死ぬまでにしたい10のこと」という映画を見たのですが、主人公アンはACの要素十分なのに、きちんと親を乗り越えて自分の子どもを育てていました。
フィクションとはいえ勇気づけられました。
私自身、意識して子供を育てています。子供だけは、ACにしないように、と。
結局、「子どもが育つ魔法の言葉」PHP文庫買いました!今、読んでいます。